年末年始。
少しだけ時間が取れた私は、神さま仏さまにご挨拶すべく、時間が許す限り、縁を結ばせていただいたあちこちの神社仏閣に参拝におもむいた。
行けばいいというものではないことは分かっている。
だが、呼ばれている気がすることも事実だ。
そんな中、ある寺院でお話をさせていただいたお坊様が嘆いていらしたのが印象的だった。
話題にのぼったのは、御朱印目当てで訪れる参拝客の一部について。もうひとつは、御朱印で客を釣っているとしか思えない、出迎える側の神社仏閣。
参拝客の一部。
書ける御朱印を全部書いてくれと横柄に頼まれることがあるという。その仏閣にどんな仏様がいらっしゃり、どんな御朱印を用意しているかも知らないでだそうだ。
それはちょっと違うのではないか。お坊様は思われる。ちなみに私も、お坊様がそう思われることになんの違和感もない。
いろいろと多忙で、御朱印を書きたくても書けないこともある。だが「こっちだってここまで来るのに時間も金もかかっている。書いてもらわないと困る」と主張し、がんとして譲らない客もいるという。
また、そのお坊様の寺院ではないけれど、神社仏閣によっては朱色で押されることの多い「押し印」だけでなく、神社名、あるいはご本尊名、寺号や寺格などもハンコであることもあるが、それにクレームが入り、揉めることもあるそうだ。
違和感を覚えると、お坊様は言う。
ハンコだっていいではないかと言っているのではない。お坊様も、ハンコですませる神社仏閣と、参拝客に一枚一枚時間をかけて丁寧に書く自寺院の御朱印が同じ価格であることに、疑問を感じないではない(ちなみに、そのお坊様に頂戴した御朱印は、ほれぼれするほど見事なものだった)。それはそれとしての話、である。
違和感は出迎える自分たち側にもある。
「あれ。あんたのところ、そんな御利益あったっけ?」
思わずそう突っこんでしまった御利益を突然うたいだし、それで客を集めようとする神社仏閣も実際にあるという。
突っこまれたその神社仏閣関係者は「とにかくお参りに来てもらえれば意味はあるんだから」と困ったようにお坊様に答えたそうだ。
私自身、神社仏閣に出向くと必ず御朱印を頂戴するようになって久しい。
私が御朱印を始めたころ、私が知る限りの情報と、行動できる範囲の中でもっともアートな御朱印を頒布していたのは、鹿沼にある古峯神社(天狗様の御朱印たち)だったが(何種類もある。その中にも、特に素晴らしい絵柄の御朱印があり、当時の御朱印好きの間では、その御朱印を書いてもらえるかどうかで盛りあがったりもした。このブログを書くために久しぶりに調べたところ、現在は当時の比ではない数の御朱印があるようだ)、アートな御朱印が百花繚乱となった現在では、まったく状況が変わっている。
私自身、ネットなどで美しい御朱印を見れば「おお、すばらしい」とは思うけれど、それだけが目当てでその神社仏閣に参拝に趣きたいとはもう思わないし、自分自身もたしかに御朱印好きではあるものの、現在の「御朱印狂騒曲」的なブームには、お坊様と同じように、やはり違和感しかおぼえない。
あらためてそんなことを思いながら、ため息をつかれるお坊様と、しばし話しこんでしまった新年の結城だった。
まあ、
「人それぞれなんだし。いいんじゃないですか」(万能のマウント)
と言われてしまえばそれだけの話。