追悼、唐十郎さん

私は演劇青年だった。

将来の夢は、舞台演出家になること。

嘆き悲しみ、世をはかなむ親に罪悪感をおぼえつつ(話にならない劣等生ではあったが、一応高校は進学校だった)、東京にある演劇系の学校に進んで、舞台芸術の勉強をした。

入学当初の夢は俳優になることだった。

だが、才能がないことはすぐに分かった。

同期には、その頃から映画やテレビに出ているプロみたいなやつもいたし、その後、声優として才能を開花させることになる女性もいた。

彼我の差は著しかった。

ならばと私は、劇作や舞台演出に情熱を燃やした。

当時の私は「遅れてきたアングラ青年」でもあった。

サミュエル・ベケットやイヨネスコ、寺山修司、別役実、唐十郎に憧れた。

原宿のシナリオセンターに通い(新井一先生がまだご健在の頃で、薫陶を受けた)、物語作りのイロハを学んだ。

そんな中、なりゆきで夏の自主公演を、私の作、演出でやることになった。

メンバーの大多数は、女優(当時は「女優」なのでお許しいただく)志望の女の子たちばかり数十人。

前述の「映画やテレビに出ているプロみたいなやつ」を主役に、協力してくれたスタッフたちを泣かせながら(実話)舞台を完成させた。

できあがった作品は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった「夢の遊眠社」の野田秀樹みたいだと、仲間たちからは評された。

なるほど、そうかも知れないと、私は自分を恥じた(余談だが、以来私はなによりも「オリジナル」であることにこだわるようになる。今につながる原点となる、ほろ苦くも懐かしい体験)。

だがじつのところ、自分の中では「いや、これはほんとは唐十郎のエピゴーネンなんだけど」という思いもあった。

高校時代にむさぼるように読んだ不条理演劇作品の影響が、自分の中に思いのほか強く残っていることを、しみじみと感じたできごとだった。

とりわけ唐十郎の影響は大きかった。

不条理演劇なので戯曲のストーリーは夢幻のごとし。

はっきり言って、田舎の高校生にはちんぷんかんぷんもいいところなのだが、それでも不条理な物語から突如として香り立つ詩的なロマンティシズムや、どこに連れていかれるのか分からない、想像力の銀河鉄道みたいな唐十郎の戯曲世界に、高校生だった私は魅了された。

東京に出てきてからは、当時も敢行されていた唐のテント公演に出向き、満員の観客と押し合いへし合いしながら、異常な蒸し暑さと尻の痛み(地べたにゴザみたいなものを敷いただけの簡易的な劇場なので)をこらえ、目と鼻の先の舞台で憑かれたように役を演じるトリッキーな唐十郎の姿を、うっとりと見ていたことを今でも覚えている。

ちなみに。

三日間にわたって行われた私たちの公演は連日大入りだったが、きっと大成功ではなかったろう。

年若く生意気な演劇野郎(+演劇少女たち)の自己満足な大暴走を、思慮深い観客たちが大きな包容力で受け入れてくれたからこそ成立した舞台だったと思っている。

それでも、私たちは勇気を持った。

仲間内から、劇団を作ろうという話が出た。

世は小劇場全盛期。

現在ドラマなどでよく見かける、今や大御所となった俳優たちが、あちらこちらで劇団を旗揚げし、小劇場カルチャーなるものが誕生していた。

やってみるか、とも思った。

仲間たちにも力をもらった。

だが私と、私を信じて着いていこうとしてくれた少女たちの夢は、突然方向転換を余儀なくされた。

私が病魔に倒れた。

一年半の入院生活の末、医師から、

「退院後は車椅子の生活になると思います。家の改造などの用意をしてください」

と両親が私に内緒で宣告される、思ってもみなかった事態になったからである。

長くなった。

今朝、唐十郎さんの訃報に接した。

自分でも意外なぐらいショックで、悲しみが押し寄せた。

もう何十年も会っていないのに、子供の頃とてもよく可愛がってくれたおじの訃報に接したような心境だった。

なんでもネットで手に入るように錯覚してしまう時代だが(私もそう)、その時代、その場でしか獲得できない特権的なものは、やはりある。

一期一会。

その積みかさね。

唐十郎の天敵、寺山修司はかつて言った。

書を捨てよ、町へ出よう

唐先生のご冥福を心よりお祈りします。

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この記事を書いた人

占術家、「幽木算命塾」塾長、怪異蒐集家。
算命学、紫微斗数、九星気学などの占術を使い、運命(宿命、運勢)という名の神秘の森に分け入る日々。
通信制私塾「幽木算命塾」で後進の指導にあたる。
占いで出逢ったお客さまなどを中心にさまざまな怪異を蒐集し、竹書房怪談文庫などで公開も。
奇妙な毎日は、ご神仏とともにある。

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